マイペースなコミュニケーション

少し前にコミュニケーションをスキルと捉えるか意志と捉えるかという議論があったが、どちらか一方に決めることなど不可能で、両方とも欠くことのできない重要なファクターだ。これは何もコミュニケーションに限ったことではなく、あらゆる行為は、意志と技術の双方が実ってはじめて効果性が高まる。

そういう多様な要素を全て含めてコミュニケーションを問題化した場合、若い世代が年上の世代から「コミュニケーション能力がない」と見なされるのも無理がない。若い世代が「対面的コミュニケーション」に苦手意識を持つのは当たり前で、なぜなら若い世代は、日々のコミュニケーションにおける、メディアに媒介されたコミュニケーションの割合が相対的に大きいからだ。

メディア・コミュニケーションは一つの学問分野になるくらいの幅広いテーマなので、詳細については論じないが、一点今回の記事に関連する特性を挙げるとすれば、それは「コントロール性の高さ」だろう。メディア・コミュニケーションは総じて、対面的コミュニケーションと比べて明らかに自己都合によるコントロール性が高い。携帯がかかってきても出たくなければ出なくていいし、メールを受信しても返信したいときに返せばいい。マスメディアに関しても同様で、見たいときにテレビを、聞きたいときに音楽を、好きなように視聴すればいいのである。

メディア・コミュニケーションは本質的に「マイペースなコミュニケーション」だ。人生における全経験の中でメディアを媒介した経験の比率が相対的に大きい若い世代が、時間や場所や相手の存在に制御された「対面的コミュニケーション」が不得手になるのは、当然の帰結なのだ。

しかし、だからといってメディア・コミュニケーションが悪いとか、若い世代が悪いとか手垢のついた批判をしたいわけではない。そもそも時間や場所や相手の存在に制御された「対面的コミュニケーション」が、至上のコミュニケーションであるという保障などどこにもないのだ。ミシェル・フーコーが指摘したように、あらゆる真理は歴史上に構成されてきたものなのだ。「対面的コミュニケーション」の方が優れていて、「メディア・コミュニケーション」の方が劣っているという見方は、ある時代までの相対的な知見に過ぎない。

しかし、上記の観点に立つと今度は「真理なんてない」という相対主義に陥ってしまうことも免れない。結局、旧来の価値観を参照しつつも、それに縛られることなく、新しい価値観を批判的に検討していくというバランス感覚が重要なのだ。何ごともバランスなんだよな、と思うことは人生において結構多い。そう、バランスを取る必要があるのだ。