労働問題における自己責任論について

年越し派遣村などの労働問題を語る際は、「自己責任論を取るかどうか」で大きく2パターンにわかれる。


自己責任論を取る人は、貧困なのは身から出た錆であると主張する。
派遣社員になんかならずに、なぜ努力して正社員にならなかったのか。
解雇されて家を失うというが、なぜ貯金をしておかなかったのか。


自己責任論を取らない人は、貧困は新自由主義に基づく社会システムが問題だと主張する。
規制緩和によって、派遣社員やアルバイトのような、
企業側にとって都合の良い雇用形態を増加させていった社会が悪いのだと。


前者を「自己責任論者」、後者を「社会責任論者」と呼ぼう。


どちらが正しいのかといえば、それぞれのケースによって異なるというのが正直な意見だ。
自堕落で無軌道な生き方をしてきたツケとして自業自得の人もいれば、
会社が倒産したり、親戚に不幸があったりなど、止むを得ず貧困に苦しんでいる人もいるだろう。


そういう点で、自己責任論にはそもそも無理があるのだ。
貧困に苦しんでいる人たちには、ひとりひとり異なる事情があるのに、
それら全てを一括りにして、「怠けていたお前らが悪い」と決め付けるのはあまりに乱暴過ぎる。


それに対して、社会責任論は、個人の多様なケースの「前提条件」となる、
社会システムを批判対象にしているので、こちらの方が明らかに筋が通っている。


多種多様な個人を一括りにすることは決してできないが、
社会システムは政策によってある程度舵を取ることが可能である。
社会責任論は、個人の生の「前提条件」である社会システムの改善を主張しているという点で、
自己責任論よりも理にかなっているといえるのだ。


しかし、自己責任と社会責任の違いは、単に個人に責任を帰するか、社会に責任を帰するかという点だけでは決してない。
両者の間には、もっと決定的な違いが存在しているのである。


それは、「批判している者が自省しているかどうか」である。


自己責任論者は「当事者であるお前らが悪い」と主張しているだけで、
批判している自分自身の非には目を向けようとしない。


しかし、社会責任論者は「当事者を生み出した社会が悪い」と主張している点で、
批判している自分自身が含まれている社会=私たちの非を認めているのである。
社会責任論者は自省を含んでいるという点で、自己責任論者を凌駕していると、私は思う。


自己の反省を怠り、相手の批判ばかりしているようでは、いつまでたっても社会は良くならない。
このことは戦争や民族紛争の例を見れば明らかだろう。
戦争だけでなく、若者問題であれ、ジェンダーであれ、何でもそうだ。


相手の責任を追及する前に、まず自分自信の責任に目を向けるということ。
これこそが、あらゆる問題を解決するための最も大切な原則なのではないかと思う。